こんにちはアーヘン工科大学のセイジ(@seiji_aachen)です。10回目のブログ投稿となる今回は米子高専最終学年となる5年生を振り返っていきます。特に就職活動や大学編入試験がなかった僕は、休日や空いた時間を興味を持ったことや趣味の時間に使っていました。
例えば土曜日は釣りに行き、釣った魚を燻製したり。技術系ではマイコンにはまっていたので、高専にArduinoがたくさんあったので勝手に拝借して先生から借りてして寮でも遊んでいたりと穏やかな日常を送っていました。
しかし、そういう生活にだんだんと物足りなさを感じるようになります。
そんなある時米子高専の集会で表彰台に上がっていた先生を見て
『これや!!俺も学校で表彰とかされてえ!!』
…そんな単純な好奇心からとりあえず形ある結果を出そう(学校で表彰される)を目標にいろいろ手当たり次第に挑戦していきます。
スイスに留学しておきながらドイツ語弁論大会で秒殺される!!
5年生の間に南山大学と京都外国語大学のドイツ語弁論大会には2回出場する。
一つ目の南山大学では勝手が分からなかったのもあり秒速で敗退したのであった。
2度目の弁論大会では前回の対策を踏まえ、
英語の先生方に文章の構成方法や弁論で入賞しやすいテーマの選び方など夏休みにも関わらず教えてもらった。
しかし二回目となる京都外国語大学の弁論大会では準備万端で満を持して参加したににかかわらず、
緊張してめっちゃ噛んだりセリフをうまく言えなかったり、
結局入賞することなくがっつり敗北する。
留学経験のない人にも負けてこの時ばかりはかなり落ち込んだ…
今になって振り返ってみると他の参加者の発表原稿はドイツ語弁論向けにかなり精錬されていて、
自分の作ったものとは比べ物にならなかったので、当然の敗北だったなと思う。
ドイツ語検定やドイツ大学入学用ドイツ語試験に挑戦するも全敗する!!

ドイツ語二級・準一級の試験に挑戦してみるも見事不合格を食らい。
当初『留学してたから独検2級くらい余裕やろ絶対合格できるわー』
と担架を切っていた自分としては相当恥ずかしかった。
その後、
もう一度ドイツ語の基礎文法学習や長文読解の練習を重ね世界共通のドイツ語試験であるTestDaFに挑戦する。
試験会場は埼玉にある獨協大学で行われるため、
飛行機で早朝の米子鬼太郎空港から東京へ向かった。
獨協大学の試験会場では30人くらい全国から受験者が来ていた。
そしてついに試験が始まった!!
リスニング!フルボッコにされる!!
次は作文の試験!である社会問題の統計が出され、それについて自分の考察と対策案を述べる的な問題だったが見事に
ライティング!フルボッコ!!
リーディング!フルボッコ!!!
スピーキングは得意だったので、なんとか行けたが結局ただ解答用紙に適当に記入して終わった…
試験の難易度を肌で感じたのはどうやら僕だけではなく、ほかの受験生も試験中でありながらあきらめて退席したりと
初めてのTestDaF試験は見事に惨敗した。
2カ月たって帰ってきた結果は悲惨なもので、
5点満点評価の会話3で辛うじて良かったもののヒアリング、長文、作文はすべて不合格だった…
さらに飛行機代や宿泊費、試験費用などかなりお金をかけていたのでショックも倍増で落ち込んだ。
今振り返ると独検2級にも受からなかった奴がTestDaF合格なんて到底無理な話で、
結局ドイツ語に関しては弁論大会と語学試験ともに目立った成績を残すことなくこの年を終える。
この時『ドイツ留学したら落ちた試験もすぐに受かるだろう』程度に考えていたが、
このドイツ語試験不合格は序章に過ぎなかった事を知る。
『TestDaFとは何ぞや?』という方はこちらからどうぞ!!
種子島のロケットコンテストでCANSAT部門に出場するもフルボッコにされる…

仲の良い先生から『イノウエ君、君イノウエ君、君CANSAT興味ある?』とCANSATと誘われ、
ちょうど今年は挑戦するも何一つ結果を出すことができなかったので、
『よっしゃ!!ここで絶対結果だしてやる!!』と意気込む。
その後、なんとか書類選考は見事突破するが、
CANSATを制作していくとあることに気づく…
『オブジェクティブ思考、オーバーロード、ストリームなんじゃそら』
でという状態で
プログラムが全くできず自分の技術力のなさを改めて感じた…
作業人数も少なく激務と化したCANSATでは地獄のモンスターエナジー生活が始まり、
気が付くと先生の研究室で朝を迎えていたこともあった。
機体とパラシュートはできたが、実機試験やプログラムの調整が大幅に遅れ、
結局本番まで十分なテストをすることなく、大会会場となる種子島に出発することになった。
本番大会では発表前プレゼンテーションが行われていたが、
正直缶サットの実機を明日までに完成させないといけなかったので、
それどころではなかった。
種子島に滞在していたが期間ほとんどを不眠不休の徹夜作業になり
ホテルの旅館の一室ではんだごて片手にCANSAT作りの大作業が始まる。
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僕『先生!!!GPSセンサー反応してますよ!!!まだ大会には間に合います!!』
先生『よしとりあえず明日は動きそうだね…』
僕『うおおおお もうこれで明日は行きましょう!!!』
大会当日は小雨と強めの風が吹き荒れるなか開催された。僕らはほとんど寝てない状態で会場入りし、最後の機体チェックを行っていた。
運営『では米子高専の方お願いします。』
パラシュートと機体を気球の中に詰め込もうとするが…
僕『やっべ先生これロボットのサイズ若干でかくないですか?』
先生『…仕方ないからとりあえず押し込んで早く上に上げよう!!(笑)』
なんとか気球にロボットを押し込み上空へ上げる。!!!
運営『では投下しまーーーす』
パカッ!!気球にぶら下がっていたCANSAT投下用の開閉装置が開き機体が気球から離れ自由落下する…
『たのむパラシュート開かんかい!!』
15メートルほど下がったところでパラシュートが開いた!!あとはそのままスピードが落ちてくれれば…というところで
『おいおいパラシュートの落下速度早くね???』
ゴン!!!
本番では結局計算したパラシュートの落下速度が速く予想よりもCANSATが強く地面に衝突してしまったのだ。
結局衝突の後遺症からCANSATの開閉装置が開かずにそのまま競技が終了してしまった。
結局、終了後の紹介プレゼンテーションでもピリッとせず
ここでも入賞することができづに種子島に来て苦い敗北を経験する、
CANSATの競技終了後ちょっとしたパーティー的なもの開かれ、
負けてうなだれていた中どこかの高専の先生が近寄ってきて
『いやー君たちどこから来たの? え!!米子高専?あー あそこ科学系が有名なところだよね!!』
負けたてほやほやだったので内心イラっとは来たが、やっぱあの先生の偉大さを痛感する。
そんなこんなで卒業前に結成したCANSAT作成チームの活動は半年ほどだったが、
僕の中では高専生活で最も充実した期間だった。
※CANSATとはという方はこちらの動画の9分20秒から観ることができます。第10回は僕らが参加したものではありませんが、同じ大会に出場しました。
ロケットコンテストから敗北後、米子高専を卒業する

ロケットコンテストが終了してからの高専卒業まではあっという間だった。
負けた余韻がまだ残っていたので、卒業間近で学校に来る必要のない日でも墜落で壊れたCANSATの修復作業をしていた。
米子高専を卒業しても僕の進路や就職が決まっているわけではないので、
『卒業してからニートやん』
とすこし不安になることもあったが、CANSATの修復作業でそれを紛らわせた。
卒業式当日…
卒業式に配られた彦名通信なる学校の広報誌では卒業する学生の進路が普通【進学】と【就職】に分かれて掲載されるのだが、
この時はクラスメートや先生まで99%くらいの人が僕のドイツ留学が絶対に無理と思っていたのか、
自分は別項目にある【その他】にぽつんと入れられていた…
『やってくれるじゃねえか!意地でもドイツの大学に入学してやる!!!』
こうして無事、米子高専を卒業する。
振り返ってみて
米子高専5年生の間はバイトしたり、弁論大会に出場したりロケットコンテストに挑戦したり、自分の中で何か形のある結果を求めていました。5年生になって『よく頑張った!!』のようなあいまいな勲章よりも【結果を出す】という事に憧れていたのかもしれません。結果を出すために送った日々は高専生活で一番熱い一年間でCANSATに関しては悔しすぎてドイツに来てからも夜な夜な負けた瞬間が夢に出てくるほど、深く思いでに刻まれていました。
しかし、さらに悔しい日々を送ることに気づくのはまだ先の事だったのです。
それでは次回に!!
次回の記事:『絶対に入学してやるミュンヘン工科大学』ついにドイツへ出発!!
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